この生誕秘話は、8月31日発売予定の『198Xのファミコン狂騒曲』(SBクリエィティブ)から 『オホーツクに消ゆ』関連の挿話だけを抜粋し、筆者自ら加筆・修正ののち再構成したものです。


ロケハンは九龍からソビエトへ
ロケハンは九龍からソビエトへ
『198Xのファミコン狂騒曲』より

塩崎剛三〈東府屋ファミ坊〉

 『オホーツク』のロケハン後、堀井さん[1]とは取材旅行に行きまくることになる。1984年5月には香港に、1985年8月にはソビエト連邦に。
 それぞれシナリオハンティングをして新たな可能性を追求するはずだったゲームたちは、不幸なことにポシャってしまったわけだけど、「シナリオ制作快調」的な記事は、『ログイン』[2]誌上を何回も賑わした。
 編集部的にはペイしたわけで、ゲームが未完成で終わったことをあまり追及されない地盤には、まあ、そういった事情もあった。
 堀井さんにしても、シナリオハンティングの記事はかなりこなしていたし、当時すでに始まっていたログインの連載記事「ゲームメイキング相談室」や「虹色ディップスイッチ」[3]のネタとしてたびたび登場していたし、堀井さん的にもペイしていたのだ。
 開発中止でもよしとされたのは、とどのつまり、アスキー[4]がゲーム会社ではなかったからで、僕の所属が出版局だったからだ。
 当時の僕はログインとファミコン通信[5]の中核スタッフであって、1984年の暮れにパソコン版の『オホーツク』[6]をログインソフトとして発売してはいたけど、それはあくまで副業で、その開発の仕事を延長していくこと、その開発の仕事がメインになってしまうことは誰も期待はしてなかった。なので、香港とソビエト連邦が舞台になる『九龍の牙』、『白夜に消えた目撃者』という2つのゲームが実現しなかったことに関して、アスキー出版局はまったく僕たちを責めなかったし、むしろその2つのゲーム製作記事が人気を博していたことで、雑誌の評判や売り上げも順調だった。それで過不足なかったのだ。
 香港は2泊3日の軽いロケだった。直前まで行くはずだった宮野さん[7]が仕事の関係で急きょ不参加になって、結果堀井さんと2人に。実らなかったこのロケだったけど、途中、繁華街のバーでボラれちゃったり、空港で別室に連れていかれて職務検査されたり、僕と堀井さんにとってはいろいろ大変なロケハンだった。
 『九龍の牙』のロケハン記事は1984年の7月にログインに掲載されたわけだけど、ちょうどそのときは『オホーツク』のパソコン版が佳境に入りかけていて、とりあえず『九龍』のゲーム化は中断していた。本格的に堀井さんが作り始めるのは、パソコン版『オホーツク』が無事に発売される1984年12月の翌月、1985年の頭になる。
 その年の3月ごろ、堀井さんはPC-8801でサンプルを作ってきた。
 編集部裏のゲームセンターでテストプレイする(その頃僕たちは大仁堂ビルの3階にある編集部だったので、ゲームセンターは北海道銀行の頃よりも編集部の近くで、窓際の明るいところに作られていた。ゲームセンターの様子は、編集部のどの席からも一望することができた)。試作版『九龍の牙』にはアドベンチャーパートとRPGパートがあって、RPGパートはそこから1年半後に世の中に登場することになる『ドラクエ』[8]を彷彿とさせる内容だった。『ウルティマ』[9]ベースの、ちょうどその翌月の1985年4月に発売される『軽井沢誘拐案内』[10]の最後の章のRPG部分が進化したような感じだった。
 堀井さんは『軽井沢』のマスターアップをしながら、並行的に『九龍』でも実験を試みていたんだろう。それは、『軽井沢』から『ドラクエ』に進んでいく過程で生まれた、実に興味深いRPGセクションだった。
 新しかったのが、アドベンチャーなのに主人公がパラメータを持っていたこと。予定では、強さ、すばやさ、HP、知性、お金、経験値、技、スペル、の8種類を持つはずだった(堀井さんは、ニュータイプ・アドベンチャーと呼んでいた。でも、これはまさしくRPGで、『ドラクエ』の原型だ)。
 技はポピュラーな蹴りの分脚、一定以上のすばやさが必要とされる龍頭拳、ダメージを受けづらいカウンター攻撃の虎尾脚、敵の体力をほとんど奪ってしまう胡蝶掌など全10種類。スぺルも相手の警戒心をほぐすネェイホウ、戦闘中に素速さを上げるファーイディーラー、正体を見極めるホンギンポ、相手の怒りを鎮めるマーマーディなど全10種類。技やスペルはレベルが上がると覚えていくが、特殊な必殺技や究極のスペルは誰かに教わる必要がある。かなりの部分、設計は出来上がっていたのだった。
 でも、堀井さん的には、もうひとつ決め手に欠けていたらしい。堀井さんは当時、ストーリーの重要性をかなり訴えていたのだが、ゲーム性とストーリーは、なかなか両立してはいかないのだった。
 「アドベンチャーとRPGの融合が今ひとつな感じなんだよね。もうちょっと詰めてみますよ」
 堀井さんもファミコン版の『ポートピア』[11]を作っている真っ最中だったので、そうそう『九龍』の実験には時間を取れないみたいだった。
 どうしてもはっきりとした締め切りのある方が優先される。『九龍』と『白夜』が日の目を見なかった背景には、そのような事情も影響していた。


 なかなか進んでいかない『九龍』はそのままになって、僕と堀井さんは次のゲームアイデアに没頭していった。打ち合わせの最中のいつもの雑談の中で、ふと「シベリア鉄道連続殺人事件」の話に発展したのだった。堀井さんは当時から「シベリア鉄道殺人事件」をアイデアとして持っていて、大まかなプロットはその打ち合わせから数日の間でおぼろげに見えてきていた。そして、それを実現するべく、ソビエトツアーに行こうということになった。
 タイトルも決まった。『白夜に消えた目撃者』。
 その新しいゲームは、時間が動く、次世代のリアルタイムアドベンチャーになる予定だった。
 堀井さんのプロットを地理的な部分で分割して、取材に行くべき候補地を絞っていった。できれば、シベリア鉄道が通る都市を、多く含んでいるツアーが理想だった。さらに、列車内でいろいろな事件を想定していたので、列車に乗る登場人物たちはなるべく多岐にわたった方が面白そうだった。そんな意味で、今回の選んだツアーは日本全国からいろんな旅行客が集まる合計33人のツアーだったから、もしかしたら、ゲームに直結しそうだった。ゲーム中のどこかで、大瀧詠一の『さらばシベリア鉄道』も流してみたい……。僕たちは、出発前から変な興奮をしていた。
 ソ連は当時、今では考えられないくらいベールに包まれていて、まずは麻布にあるソ連大使館の中の事務所に申請するところから始まった。ビザはなくて、15日間の旅行申請だ。許可まで、2週間以上必要だった。
 「行くなら宮野さんも誘おうよ」
 堀井さんの言葉で会社の承認ももらって、2年前の北海道のロケハンと同じメンバーでいくことが決まったのだった。
 ツアーには中野くんという添乗員がついていたのだけど(どう見ても大学生か、大学を出てから1年以内)、添乗業務には慣れていないみたいだった。旅行ツアーのメンバーには年配の夫婦とか、親子とか、女子だけのグループとかいろいろ。明らかに意味不明な僕たち3人はちょっと異質だったし、年齢も中野くんとは一番近かったので、最初からちょこちょこ彼と話すようになっていった。
 ソ連最初の都市はサマルカンド[12]。砂漠の中に迷宮遺跡がある都市だ(実は1年半後に発売される『ドラクエⅡ』[1]のサマルトリアは、ここからいただいたらしい)。その後、隣都市のタシケント[13]、それから飛行機で一気にトビリシ[14]、キエフ[15]、レニングラード。次にシベリア鉄道に乗ってモスクワ、最後にイルクーツクまでいって、そこから帰るという15日の行程だった。日本に帰って、比較的すぐにソビエト崩壊になったので、結果、僕たちが行った都市でロシアに残ったのは、モスクワとレニングラード、イルクーツクだけ。レニングラードも名前が変わったし、サマルカンドやタシケント、キエフ、トビリシといった、物語の根幹をなすはずだった中央部の美しい街たちは、みんな別の国になってしまったのだった。
 添乗員の中野くんは、いつもKGB [16]の諜報員(らしき人)に見張られていた。最初の滞在地サマルカンドについたときから、知らないうちに添乗員が1人追加されていて、30代後半の体格のいいソ連人がいつも中野くんと行動を共にするようになっていた。彼は、実はKGB 君だったらしい(堀井さんと僕は、この30代後半の体格のいいKGB の諜報員らしき人のことを、KGB 君と呼ぶことにした。表向きはインツーリストといって、ソ連政府観光局から派遣されてきたロシア人ガイドらしい)。KGB 君の正体については、その後で仲良くなった中野くんがこっそり教えてくれることになる。
 そうなのだ。このツアーの異様さがわかったのは、ほぼ最初のときからだった。
 まず中野くんがバスの中でいろいろ説明するんだけど、その内容を横にいるKGB 君に翻訳すると、すぐさま訂正される。その後KGB 君がソ連語で何やら言って、それを逐一中野くんが日本語に翻訳していくというスタイルだ。やがて、最初からKGB 君がしゃべって、中野くんが翻訳するスタイルが定着した。中野くんは、すごく疲れていた。
 KGB 君は1週間後にKGB 君2(ツー)と交代することになったので、また中野くんとKGB 君2との信頼関係構築は、最初からやり直しになった。KGB 君2はKGB 君より、ちょっぴり愛想がよかった。僕たちはちょっとだけ安心した。
 バスが田舎の一本道を進むとき、時折
 「左側のカーテンを閉めてください。これから当分、左側は撮影禁止です。右側は、いくら撮ってもらってもいいです」
 と左サイドの撮影拒否にあった。僕たちはバスの一番後ろの席に乗ってたんだけど、前を見ると左半分がカーテンを閉めたせいで真っ暗、右半分は窓の外が明るい、ある意味異様な光景だった。でも後ろの席からは、運転席の前のフロントガラスの左側から、左側の景色を見ることができたし、後ろのリアウインドーの左側もオープンだったので、後ろを振り向けば、そこに何があるのかは確認することができた。
 でも、僕たちは決してそんなことはしなかった。もしそんなことをしたら、KGB 君の背広の中に隠されている黒光りするピストルが、いつ現れてもおかしくない。そんな気がしていたからだ。
 ツアー時間の変更も、日常茶飯事だった。たとえば夜8時発の飛行機でトビリシからキエフに行くはずだったんだけど、平気で夜中の2時に変更されたりした。なので晩ご飯の後
 「暇だね、2時まで。ゆう坊、どうする?」
 「バーにでも行って、時間つぶそうか」
ってことになる。
 当時のソ連のホテルは、どこに行っても必ず昔ながらのバーがあったので、僕たちはたまにそういった場所を利用した。中野くんも、よく気晴らしに飲みに来ていて、そこで一緒になったこともあった。
 でも、その日午前2時を目指して空港に行ってみると、さらに朝の5時に再変更されていた。中野くんも初めて聞かされたみたいで、珍しくちょっぴり怒っていた。ただ、僕たちを含めツアー客の前では、そういった瞬時に収まってしまう「怒りのようなもの」を、ちょっとだけ発散することしかできないみたいだった。かわいそうだなあ、中野くん。
 僕たちの移動は、全便アエロフロートだったけど(数えてみたら、全部で7回あった)、そのパイロットは皆ソビエト空軍のパイロットを兼務しているらしく、飛行感覚が日本の飛行機のそれとまったく異なっていた。たとえば空港へのアプローチ。日本の航空機は大体徐々に高度を下げて、なるべく機体を傾けることなく、静かに着陸に向かうのが基本だった。
 ただし、アエロフロートは違った。一気に高度を下げ、まるでアクロバット飛行のように、空港にアプローチした。彼らはまるで、鮮やかなアプローチをすることを、他のパイロットたちと競っているかのようだった。斜めになった機体を立て直してランディングするまで、ほんの10数秒しかかからなかった。
 そのせいで、僕ら一行は少なからず飛行機恐怖症に陥っていた。あと1、2回飛行機での移動が多かったら、本当に精神的にやられる人がでてきたかもしれない。
 もうひとつ、このツアーの最大の問題点は、衛生事情だった。
 「海外の水は危ないから、なるべく飲まないようにしてください」
 という事前注意は受けていたので、ツアー客全員しっかり守っている風だった。でも落とし穴があったらしく、3日目ぐらいで10人ぐらいが腹痛を起こした。今から思えば、グラスのコップとか、サラダになっている洗った生野菜とか、あまりきれいではないお皿とか、必ず最後に出るデザートのフルーツやアイスクリームの中の水分とか、考えてみれば怪しげなところはいくらでもあった。
 みんな注意しているにもかかわらず、腹痛の流れはどんどん広がっていって、最終的には32人がアウトになった(唯一無事だったのは、我々のメンバーのもうひとり、宮野さんだ。彼はこのことで、それから10年間は「健康無敵人間」としていじられることとなった)。僕も堀井さんも、ツアー終盤近くまでは大丈夫だったんだけど、2人ともレニングラードあたりから駄目になった。僕はレニングラードの夏の庭園のフリータイムを、トイレを探すことだけに費やすことになる。せっかくの世界遺産[17]なのに、ろくに見学することもできなかった。まあ、そんなツアーだった(もっともレニングラードの世界遺産登録はサンクトペテルブルクに名称変更してからの1991年なので、1985年の時点では世界遺産ではなかった)。
 途中悲しい事故があった。僕たちのツアー周辺は1日か2日ずれや反対廻りコース、小コースなどが入り乱れていて、同時に3つから5つのツアーが催行されていた。日航機が墜落したというニュースを中野くんが運んできたのはちょうどモスクワにいるときで、僕たちは騒然となったものだ。その後これもバーで聞いたんだけど、別のツアーの若い男が、恋人の訃報を耳にして、ビルの屋上から後追い自殺したらしい。そのツアーは中止になったという噂だ。もっと後で中野くんに聞いたのは、どうもその訃報は間違えて届けられたらしい。聞くに聞けない話だった。でも、十分そういったことが起こる時代だったし、環境だったし、正確な情報が届かない国でもあった。
 僕たちはもちろん彼の顔も知らなかったけど、モスクワの地で彼の冥福を祈った。で不謹慎だったけど、僕と堀井さんは顔を見合わせた。
 「これは使えるね!」
 シベリア鉄道で旅行中の若い男。謎に充ち満ちていて、事件にかかわっていそうだが、真相はわからない。そんな折、その男の恋人の訃報が、東京から届けられる。悲しみに嘆く男。やがて、男は絶望から静かに命を絶つ……。でも、その訃報自体、策略だったのだ。誰かの手で書き換えられた、偽の訃報だった……。
 不謹慎極まりないことだが、僕と堀井さんは盛り上がって、どんどんストーリーの詳細を詰めていったのだった……。
 そんなこんなで、僕たち33人のツアー客は、添乗員の中野くんも含めて、ものすごく連帯感が強くなって、仲良しになってしまった。レニングラードやモスクワのレストランでは、いつも一緒にダンスをした(ソ連のレストランはどこでも基本的にダンススペースが設けられている。誰でもいつでも踊ったりできるように。ちょっとした小ホールの舞台のようなものが用意されているレストランさえあった)。最初は個別のダンスだったけど、そのうち民族舞踊的なものも一緒に踊ることになって、最後にはチークも踊った。恥ずかしそうにしている若い女の子と一緒に、僕は堂々と見よう見まねのチークを踊ったものだ。
 たぶんみんなから見れば東京でマスコミ関係の仕事をしているってこと自体異質だったから、興味本位で僕たちのことを眺めていたんだと思う。でもせっかく好意的に見てくれているんだから、積極的に利用しない手はないのだった。
 いよいよ最後のフライトで日本に帰るってときになって、日本に着いたら「美味しい日本のものを食べませんか?」って話になった。誰から言い出したんだろう。でも僕たちはたっぷり仲良くなっていたので、誰が言い出しても不思議じゃなかった。たぶんみんなの総意だったのだ。全員一致で祝杯を企画できるぐらい、僕たちは打ち解けてしまっていた。
 新潟空港に着いてから、美味しい刺身と寿司を求めて、全員で新潟の繁華街に繰り出した。
 「無事日本に着いて、よかったね」
 それは、みんなの実感だった。3時間後、一緒に新幹線で帰ることにした。刺身と寿司と鰻と、みんなはじけるような笑顔だった。
 そんな期待いっぱいの『白夜に消えた目撃者』だったが、ツアーから半年後にファミコンカートリッジのロム容量アップの発表が任天堂からあって、本当に消えてしまうことになる。ロム容量が増えれば、『オホーツク』の絵を全カット表示することも可能になる。僕も堀井さんも『白夜に消えた目撃者』を作る気満々で、意気込んで日本に帰ってきたんだけど……。


[1]堀井さん
堀井雄二さん。『ドラゴンクエスト』シリーズの作者として、あまりにも著名。愛称は「ゆう坊」。

[2]『ログイン』
1982年の3冊の季刊誌の後、1983年より月刊誌として刊行されたパーソナルコンピュータ総合誌。このパソコン誌から1986年に『ファミコン通信』が生まれていくことになる。

[3]「虹色ディップスイッチ」
『ログイン』に掲載されていた堀井さんの2ページの見開きエッセイ。

[4]アスキー
1977年設立のコンピュータ系の出版社。初代社長は、郡司明郎さん。

[5]ファミコン通信
1985年2月から『ログイン』誌上で展開されたファミコンゲームのコーナー。連載から16か月後、隔週誌『ファミコン通信』が創刊された。

[6]『オホーツク』
『オホーツクに消ゆ』のこと。1984年発表の堀井雄二作のアドベンチャーゲーム。ログインソフト第1弾。コマンド選択式を初めて採用し、『ポートピア連続殺人事件』、『軽井沢誘拐案内』とともに、堀井ミステリー三部作と呼ばれている。

[7]宮野さん
宮野洋美さん。当時のログイン編集部デスク。北海道やソビエト連邦へのロケハンへは、堀井さん、筆者とともに同行している。

[8]『ドラクエ』
『ドラゴンクエスト』の短縮形愛称。堀井雄二作。言わずと知れた、日本発ロールプレイングゲームの金字塔。

[9]『ウルティマ』
1981年発売。オリジン社開発の俯瞰見下ろし型RPG。2Dフィールドを舞台にしたコンピュータRPGの原形。日本語訳にあたって、「アルティマ」「ウルティマ」の論争が起こった。

[10]『軽井沢誘拐案内』
堀井ミステリーシリーズの第3作。この作品のみファミコン等のコンシューマー機には移植されていない。終盤にRPG風のシーンが登場するなど、その後の『ドラゴンクエスト』へつながる気配を見せている。

[11]『ポートピア』
『ポートピア連続殺人事件』のこと。堀井ミステリーシリーズの第1作。「犯人はヤス!」のフレーズは、みんな知っている。

[12]サマルカンド
現在のウズベキスタンにある都市。かつてのシルクロード交易の中継地点として栄えた古都。

[13]タシケント
現ウズベキスタンの首都。ウズベキスタンもソビエト連邦の構成国だった。

[14]トビリシ
現ジョージア(旧名グルジア)の首都。当時はソビエト連邦の構成国だった。

[15]キエフ
現ウクライナの首都キーウ。ウクライナも当時はソビエト連邦の一角だった。

[16]KGB
他のツアー客に聞いたところ、同様の黒服のガイドが同行していたとのこと。どう考えても、堀井さんの予想は当たっている……。

[17]世界遺産
同様に、モスクワの赤の広場やバイカル湖、キーウの聖ソフィア聖堂、トビリシのゲラティ修道院、サマルカンドの文化交差路など、ツアーで訪れた場所のほとんどが、後年世界遺産として登録されている。

198Xのファミコン狂騒曲

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全部で396ページほどの書籍ですが、この生誕秘話はそのうち51ページぶんで全体の13%弱にあたります。
『198Xのファミコン狂騒曲』では『ファミコン通信』創刊秘話や、堀井雄二さんと作った『いただきストリート』など、 さまざまなエピソードが語られています。興味のある方は、ぜひご一読ください。