この生誕秘話は、8月31日発売予定の『198Xのファミコン狂騒曲』(SBクリエィティブ)から 『オホーツクに消ゆ』関連の挿話だけを抜粋し、筆者自ら加筆・修正ののち再構成したものです。


北海道とサスペンス劇場
北海道とサスペンス劇場
『198Xのファミコン狂騒曲』より

塩崎剛三〈東府屋ファミ坊〉

 北海道のロケハンの話をする前に、今後重要なパートナーとなっていく上野利幸くん[1]の話に、ちょっとだけ触れておきたいと思う。
 上野利幸くんは、おかしなプログラマー青年だった。どうやって彼がログイン編集部[2]に入ってきたのか、あまり記憶にない。ただ、気が付いた時には僕の横にいて、いろんなことをしてくれていた(ゲヱセンが言うには、面接担当の吉崎さん[3]が「若いが切れる」とゲヱセンを評価していて、その面接票を見た僕が、積極的にゲヱセンに近づいていったらしい。もしそれが本当なら、吉崎さんはある意味見る目があったってことだ)。
 最初はBASIC[4]ができて、ちょっとはマシン語[5]も操れる(アスキー[6]にアルバイト入社したころの僕程度だ)、いい感じのプログラマーだった。が、いろいろ話したり、簡単なプログラムを書いてもらったりして、けっこうセンスがいいことが分かってきたので、『ログイン』の特集記事でプログラムを書いてもらったのを機に、僕の周辺でもやもやっと動いていたパソコンゲーム『オホーツクに消ゆ』[7]開発プロジェクトで、プログラム開発を担当してもらうことにしたのだ。
 パソコン版『オホーツクに消ゆ』の発売は1984年12月だったので、彼がプログラマーなのはそこまでだ。それ以降は、今度はゲーマーとしてのゲヱセン上野が活躍していくこととなる(もっとも『オホーツクに消ゆ』のMSX版への移植などもゲヱセンが担当していたので、プログラム離れになるのは、実際はもう少し後なのかもしれない)。
 ゲヱセンといろいろ話してみると、宮崎駿のアニメと原田知世の映画が大好きな映画少年で、『リブルラブル』[8]を死ぬほどやりこんだゲームセンター野郎だったことがわかった。だからゲヱセン上野という名前になった。
 ゲヱセンと名付けたのは、たぶん僕だ(そういえば、どこかで上野くんは「塩崎さんがつけてくれた名前はゲーセンで、それじゃあ当たりまえすぎるんで、音引きをヱに変えて、自分でゲヱセンに変えました」って言ってたけど、そうだっけかな)。
 ゲヱセンが入ってくるまで僕はログインのゲームセンターではトップ成績で、スコアで僕に勝てる奴はほぼいなかったんだけど、ゲヱセン登場以降はあっという間に2番手以下に落ちて、僕はゲーマーとしての引退を考えるようになっていく。
 ファミコン版『ギャラガ』[9]が出たのは1985年の3月。その『ギャラガ』で高得点を出していた僕のスコアをあっさり塗り替えて、ほぼトップを独走してしまったのがゲヱセンだった。
 僕は、完璧に脱帽した。ゲヱセンは見事にプログラマーからゲーマーに変身したのだった。
 ゲームの記事を作る場合、画面写真が必要で、その画面をいつでも出すことができるスタッフは、ある意味必須だったのだ。先割りレイアウトの話をしたけれど、ゲーム記事の先割りは画面写真にも影響を与える。
 記事内の起承転結、お話の流れを考えてラフレイアウトをおこすわけだから、たとえば、そこに画面写真が4つ並んでいれば、どういう場面の写真が4枚ということが頭の中で決まっていて、そのそれぞれの画面に当てはめられた40字のキャプションに書かれる文章も、その時点で決まっているわけだった。なので、そのキャプションにあてはまるバッチリのゲーム画面写真を撮らなきゃならない。
 たとえば、3面スタートのときの敵が左から出てきた直後に自分がパワーアップしたところ、とか、5面のボスをやっつけたあと、ボーナスステージの終わりで敵が分裂するところ、とか。
 とくに初期のファミコンカートリッジにはバックアップ機能[10]がなかったので、つねに最初からスタートして、その画面を出さなくてはならなかったのだ。なので、優秀ゲーマーの存在は絶対だった。
 ゲヱセンはいつでも、そういった画面写真プレイが可能な人だった。
 そんなゲヱセンの立ち位置は、「ファミコン通信」のコーナーがスタートする1985年頭から、『ファミコン通信』創刊を経て、1986年の夏あたりまで約1年半、ずっと続いていくことになる。
 この1年半は、「ファミ通」で記事を書いてもらったり、ゲーマーやってもらったり、『フレッシュジャンプ』[11]を手伝ってもらったり(これもまた、別の話だ)、異質ではあったけどある意味オーソドックスな仕事をこなしていた。彼の仕事がガラって変わるのは、ファミコン版『オホーツク』からだった。
 1986年の春すぎに、『オホーツクに消ゆ』のファミコン版の開発話がスタートする。スタッフ構成はいろいろ悩んだ結果、ゲヱセンには単独でのBGM制作で参加してもらうことになった。
 ちょっと前からゲヱセンの音楽的センスが尋常ではないことに気づいてしまったので、思い切って依頼してみることにしたのだ。『ファミ通』もちょっと落ち着いているし、これは面白いかもしれない。


 「そういうことなら、是非やりましょう! 北海道に行っちゃいますか!」
 決まったら行くのは早かった。2か月後には、僕たちは釧路空港に降り立っていた。1983年の9月のことである。
 『月刊ログイン』の「スターゲームデザイナー登場!」の取材で堀井さん[12]のところに行ったのが7月だったので、本当にわずかな準備期間でのロケハンスタートになったわけだ。どこかのインタビュー記事で、堀井さんが「担当のSくんがカニが大好きで、北海道に行くことになったんですよ」って書いてあったけど、それは決して本当じゃなくて、堀井さん特有のネタだ(まあ、北海道に行ったら、是非カニを食べましょう的な話はしたわけだけど)。
 「今回の『ログイン』のプロジェクトでは堀井さんにはシナリオだけ書いてもらって、絵とプログラムは別の人間をアテンドしようと思います。映画とかドラマみたいに、複数の人間で創り上げていく感じですね」
 一緒にロケハンに行ったのは宮野さん[13]。当時僕の親分的な人で(といっても歳は同い年だ。彼は映像関係が大得意なので、映画のシステムにも通じるこのロケハンでは大いに活躍してくれた)、今回の企画ではデスク的な立場だった。
 実際にシナリオハンティングをして、その様子も記事にしながら、最終的にゲーム作りをしてしまうという「スターゲームデザイナー登場」の隔号連載企画だったので、編集部としてはそこそこ大きなプロジェクトなのだ。
 予算もそれなりについていた。2泊3日の予定で、『ログイン』でのロケハン記事3回分、それを受けたゲームシナリオの完成に必要十分な取材が、僕たちに与えられたタスクだった。
 まず立ち寄ったのが、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖の道東三湖だ。ここはヒロインが登場したり、物語後半では度々訪れなくてはならなくなる、重要なポイントとなるはずだった。
 その後、美幌峠を経由し、約150キロの山道をドライブ。サロマ湖を超えたところで、僕たちは初めてオホーツク海に接したのだった。
 ホテルは東京で決めていた通り、舞台の最北となる紋別で探すことにした。
 「『砂の器』[14]みたいな重厚なのがいいですね」
 「火曜サスペンス劇場[15]と合わせたような雰囲気だよね」
 オホーツクが舞台の松本清張風2時間サスペンスドラマというコンセプトは最初から決まっていた。行く最北地は紋別、最南端は釧路。舞台となる殺人現場たちは、紋別と釧路を結ぶラインより東側という縛りも作っていたから、移動ルートを考えるのは比較的楽だった。
 紋別のホテルはビジネスホテルに毛の生えたような小さなホテルだけど、1階に小さな和食レストランを併設しているのがよかった。
 「ここにしようよ」
 しっかりカニの料理写真をチェックしながら、堀井さんと宮野さんと僕は頷き合った。
 このレストランの夕食の様子は堀井さんが詳細に『ログイン』に書いているわけだけど、まあ、大正解だった。
 とにかくカニづくしのフルコースで、3人とも大満足だったのは、説明するまでもない。
 カニ豆腐、カニ焼売、カニの刺身、カニ酢、焼きガニ、カニのバター焼き、カニの天ぷら、カニ寿司、カニの味噌汁。
 「いやあ、お腹いっぱいですねえ。さすが北海道だ」
 なんて舌鼓を打っていたら、最後にとんでもない大きさのズワイガニが一人1杯ずつ出てきたのには、3人ともびっくりだった。
 「えっ? これ、一人1杯ずつ?」
 「名物だから、是非召し上がってください。もし多いようなら、残しておいてくれたら、明日の朝食にお出ししますよ。味噌汁にもなりますし」
 そのおかみさんの親切な言葉に、もちろん僕たちは便乗することにする。
 翌日は翌日で、大変だった。朝から、カニ三昧だ。3人でほぼ3杯まるまる残っていたので、一部を味噌汁に入れてもらって、カニスプーンを持ちながら、ひたすらカニと格闘することとなった。
 カニに満悦したら、仕事が待っていた。
 朝早く紋別の港湾管理事務所に行ってから、展望台に登って海難殉職者慰霊碑を見学、そのあと網走に向かった(網走刑務所が舞台になることも決まってたので、網走は必須だった)。
 「タイトル候補の場所、寄ってみます?」
 僕たちはちょっと遠回りをして、能取岬が見えるオホーツクを楽しんだ。絶景だった。
 堀井さんとも事前に、タイトル画面はこのあたりの流氷がいいかも、と話し合っていたのだ。いろんなアングルから、岬をしっかりと写真に収めておくことにする。
 網走では、網走刑務所の販売店に立ち寄ってから、受刑者のニポポ人形を探したあと、第2の殺人現場、網走港をチェック。そのあと国道391号をずっと南下していく予定だった。
 その途中で立ち寄ったのが、網走近くの北浜という浜辺だ。堀井さんが、
 「オホーツクの浜辺で最初の殺人事件、起こしたいなあ」
 って言ったので、適当な砂浜があって雄大な海が広がっているような場所を、車の中と地図から物色していたのだ。そして、目の前に現れたのが北浜だった。
 ちょっとした茂みがあって、その奥に浜辺が広がってて。
 堀井さんは実際に浜辺まで降りて行って、躊躇なく寝転がった。運よく発見した浜辺だったけど、死体が流れつくには絶好の場所だった。
 いかにもオホーツク的な広大な感じで、海の向こうに水平線しか見えないのがよかった。
 「いいですね、ここ」
 「いいねえ。ここだね、最初の殺人現場は!」
 とりあえず、最初の殺人の設定が決まっていく。取材スタートから2日目、もう随分と取材できた。絶好調だ。
 「堀井さん、あと行きたいとこあります?」
 「知床行こうか。ちょっとアイデアあるので」
 堀井さんの希望で、最終日に知床半島を回ることにする。なので、半島の入口、ウトロで宿を探すことにした。
 知床五湖の遊歩道に入るときに、僕たちの興味を引いたのは、いくつものクマ注意の看板だった。
 「ふーん、やっぱりヒグマが出るんだね」
 「一応、鈴は買っておきましょう!」
 売店でクマよけの鈴をひとつだけ購入。ヒグマ対策のわりには、可愛い音色だった。
 さらに南下してトドワラへ。この場所は、ロケハン企画時から死体置き場の候補だった。
 「やっぱり、死体が似合う場所ってあるんだね。ここは一番似合うかも」
 そうやって、殺人現場がどんどん決まっていく。さすがにちょっと痛そうだったので、今度は堀井さんは寝転がることはしなかった。
 そのまま、陸の方に入って釧路空港へ直行。無事に2泊3日のロケハン旅行は終了し、僕たちはまだ明るいうちに羽田空港に到着したのだった。
 時間と距離の関係上、ゲームに登場する函館や札幌には回れなかったけど、「まあ、そんなに大幅に登場させなきゃいいんじゃないかな。写真でやろうよ」ってことになった。3人とも、まったく意に介していなかった。当時はそんな些末なことは、誰ひとりとして気にかけなかったのだ。
 帰りの飛行機で僕と堀井さんはちょっと興奮していて(宮野さんだけ離れた席だった)、
 「どんな記事ができる感じですか? 若干ゲーム内容にも触れた方がいいですよね。ちょっとだけ、ゲームも作っちゃったほうがいいのかなあ」
 なんて、将来の記事設計も始めてしまっていた。
 「じゃあ、東京に帰ったら、すぐに取りかかりますよ」
 堀井さんも、ものすごくやる気になっていたのだった。


[1]上野利幸くん
愛称、ゲヱセン上野のほうが一般的。ゲーマーであり、プログラマーであり、編集者であり、作曲家でもある。彼とは長い付き合いになった。

[2]ログイン編集部
僕がアスキーに入って、最初に所属した編集部。1982年の3冊の季刊誌の後、1983年より月刊誌『ログイン』を刊行。

[3]吉崎さん
吉崎武さん。『月刊ASCII』の初代編集長。

[4]BASIC
処理速度は遅いが扱いやすい、初心者向きのプログラム用言語。

[5]マシン語
機械語。1980年当時、パソコン上のプログラムを作成するうえで、最も処理速度が速かったプログラム用言語。

[6]アスキー
1977年設立のコンピュータ系の出版社。初代社長は、郡司明郎さん。

[7]『オホーツクに消ゆ』
1984年発表の堀井さん作のアドベンチャーゲーム。ログインソフト第1弾。コマンド選択式を初めて採用し、『ポートピア連続殺人事件』、『軽井沢誘拐案内』とともに、堀井ミステリー三部作と呼ばれている。

[8]『リブルラブル』
ナムコのアクションゲーム。ジョイスティックが2本必要なため、ファミコンには移植されなかった(1994年にスーパーファミコンに移植)。

[9]『ギャラガ』
ナムコのシューティングゲーム。1985年にファミコンに移植され、絶大な人気を誇った。

[10]バックアップ機能
『ドラクエ』の復活の呪文が必要だった理由は、ファミコンカートリッジにバックアップ機能がなかったから。復活の呪文は『ドラクエ2』まで存在していた。『ドラクエ2』発売の1987年1月時点ではバッテリーバックアップ機能を持ったカートリッジは存在せず、1987年6月の『未来神話ジャーヴァス』が初とされている。

[11]『フレッシュジャンプ』
1982年創刊の集英社発行の月刊漫画誌。

[12]堀井さん
堀井雄二さん。『ドラゴンクエスト』シリーズの作者として、あまりにも著名。愛称は「ゆう坊」。

[13]宮野さん
宮野洋美さん。当時のログイン編集部デスク。北海道やソビエト連邦へのロケハンへは、堀井さん、筆者とともに同行している。

[14]『砂の器』
1974年公開、野村芳太郎監督のミステリー映画。原作は松本清張。主演は丹波哲郎、森田健作。

[15]火曜サスペンス劇場
1981年から日本テレビ系でスタートした2時間枠のサスペンスドラマ。通称、火サス。第1回放送は、松本清張の『球形の荒野』だった。

198Xのファミコン狂騒曲

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全部で396ページほどの書籍ですが、この生誕秘話はそのうち51ページぶんで全体の13%弱にあたります。
『198Xのファミコン狂騒曲』では『ファミコン通信』創刊秘話や、堀井雄二さんと作った『いただきストリート』など、 さまざまなエピソードが語られています。興味のある方は、ぜひご一読ください。