この生誕秘話は、8月31日発売予定の『198Xのファミコン狂騒曲』(SBクリエィティブ)から 『オホーツクに消ゆ』関連の挿話だけを抜粋し、筆者自ら加筆・修正ののち再構成したものです。


『198Xのファミコン狂騒曲』より
塩崎剛三〈東府屋ファミ坊〉
「文章も書けてプログラムも書ける変な奴がいるんだけどどう?」
これは僕が最初にアスキー[1]の面接を受けたときの、吉崎さん[2]から小島さん[3]へ伝えられた僕のイメージだったようだ。
吉崎さんの面接を2回経て、僕は小島さんの下に配属されることになる。そうやって、僕の進路は、本人が介さないところで決まっていった。
吉崎さんは、当時のアスキージュニア編集部(新雑誌は『月刊ASCII』[4]の子分雑誌という位置づけなので、編集部名もそんなストレートなネーミングだった)の編集長で、小島さんは副編集長だった。
プログラマーとしてスタートした僕だったけど、それはどうやら本来のレールではなかったみたいで、やがて思いもしない方向に舵が切られていく。
「お前はこれからプログラム禁止になったからね」
「えっ? どういうことですか?」
「今後はプログラム禁止。100パーセント、編集者になってもらうから」
小島さんは、いきなりそう断言した。
あいつは、プログラマーより編集者にした方が面白い。プログラマーはそれなりにいるけど、今この編集部では、編集者が不足している……。
『ログイン』[5]が月刊化されるタイミングで、残念ながら僕はプログラマー失格の烙印を押され、編集者としての道を進んでいくこととなった。
1982年の冬のことである。
そのころ僕は、『スペースインベーダー』で9990点で止めるテクも持ってたし、いっちょ前のゲーマーだった。プログラマーを諦めた僕の『ログイン』内での仕事は、自然とゲーム関係に集中していく。
読者が投稿してくるオリジナルゲームたちのチェックは全部僕だったし、日本のソフトハウスが発売する新作ゲームのチェックも、ほぼ僕になっていた。
ログイン編集部には、いわゆるメジャー雑誌を経験しているプロフェッショナルな人は少ない。ただ例外が2人いて、もと『ポパイ』の編集者でログインへ移籍してきた堀内さん[6]と、音楽関係のライターをしていた藪さん[7]だ。僕はこの2人からとことん雑誌作りについて教わっていくことになる。
短い文章にも起承転結のようなテクニックが必要で、僕は何回も何回も書き直されたものだった(藪さんはシンセも自由に操っていて、後年、ファミコンゲーム『オホーツクに消ゆ』[8]を作る時に、「1曲書いてくださいよ」という話になって、12小節ぐらいの、短いテーマを書いてくれることになった。秀逸な曲だったので、メインシーンの「殺人シーン」にあてることにして、『殺人のテーマ』と命名する。ゲームを遊んだことのある人は、ああ、あの曲かなって思い出してくれると思う。藪さんは『オホーツクに消ゆ』を遊んで、自分の曲を聴いてくれただろうか)。
ちなみに僕もつたないピアノを弾きながら、1曲書かせてもらっている。そんなつもりはさらさらなかったのだけど、作曲を担当してくれた上野くん[9](ゲヱセン上野)が、「塩崎さんも1曲書いてくださいよ」としつこくからかってきたので、ついつい調子に乗ってしまったのだ。『とく子のテーマ』といって、小野とく子なる登場人物(犯人)の病室から次の再捜査が始まるまでの2、3分間流れている曲だ。
こっちは静かなバラード。もしかしたら、あれねって思い出してくれる人がいれば、すごくうれしいかも……しれない。
堀井さん[10]の話をしなくてはならない。
1983年に『ログイン』が月刊化になって、僕は新作ソフトの紹介ページとそれに付随したソフトハウス紹介ページを受け持っていたので、新作ソフトを出しそうなメーカーに片っ端から電話して(といっても、当時ゲームメーカーは少なくて、全部で10社もなかった。なので、週に1回担当者に電話したとしてもまったく負担じゃなかった)、発売前の新作ソフトをどんどん送ってもらっていた。
エニックス発売の堀井雄二作『ポートピア連続殺人事件』[11]もそのひとつだった。
エニックスは当時、「ゲームホビープログラムコンテスト」なるものを開催していて、パソコンゲームのコンテストなんて当時では本当に珍しく、まさしく先見の明だった。さらにエニックスという会社自体がまったく異業種からの参入だったので、業界では「へぇーっ」って感じで受けとめられていた。
編集部の堀内さんや宮野さん[12]も、興味シンシンだった。
コンテストの発表はその年の1月で(ログイン編集部がまだ本格稼働していない段階での入賞作発表だったので、対応が遅れたんだと思う。ただその当時は、1週間1か月を争うようなスピード感は不必要な、緩い時代だった)、たくさんの入選作品のうちのひとつとしてエニックスからもらった堀井さんの『ラブマッチテニス』[13]は、ゲームセンターのマシン上の棚のソフトたちの中に、すっかり山積みとなって埋もれていた。
普通のテニスゲームだったし、誰も遊ぼうとはしない。なので、その『ラブマッチテニス』が、
「えーっ、堀井さんのゲームだったの?」
と編集部内で初めて脚光を浴びることになるのは、「ゲームホビープログラムコンテスト」とは直接関係のない堀井さんの次回作『ポートピア連続殺人事件』のサンプルが送られてきて、しばらく経ってからのこととなる。
『ポートピア連続殺人事件』を遊んでみて、僕はただただ衝撃を受けた。
それまで僕が遊んだことのあるアドベンチャーゲームは、アスキーが作った『表参道アドベンチャー』や『南青山アドベンチャー』[14]、それと英語版の『ゾーク』[15]や『ダンジョン』[16]などのテキスト主体のものと、『ミステリー・ハウス』[17]や『ウィザード&プリンセス』[18]のグラフィック付きのものぐらいで、場所移動とかの概念はなく、移動は主に東西南北に前後上下。「とる」とか「つかむ」とか「みる」とか、そのへんの決められた文字入力をすることがすべての、マニアックなゲームたちだった。
当時はしりのRPG、『ウルティマ』[19]や『ウィザードリィ』[20]にしても、動くのは前後左右か見下ろし方の初期『ドラクエ』風の移動だったから、こんな、いきなり場所指定コマンドで場所移動させる『ポートピア』はある意味、斬新すぎたのだ。
今までの常識的思考がまったく通用しない、意表をついたアドベンチャーゲームのシステムだった。
「これはすごいなあ」
度肝を抜かれるというのは、こういったことを言うのだろう。堀内さんや藪さん、宮野さんも口を揃えて、
「すぐにインタビューにいかないと! 『ログイン』で盛り上げていこう」
と興奮気味だった。
ちょうど『ログイン』内に「スターゲームデザイナー登場」と大々的にネーミングされた、これからのパソコンゲーム界を担うであろうプログラマーやゲームデザイナーを紹介する4ページのコーナーがあったので、それに出てもらおうということになった。
「スターゲームデザイナー」は、たぶん僕たちが作った言葉だ。
プログラマーという言葉はあっても、ゲームデザイナー、ゲーム作家という言葉は存在してなかったし、当時のパソコンゲーム業界には作家やデザイナーなどの片鱗すらなかった。
パソコンゲーム周辺を一人前の業界にしていくためにも、そういったメジャーの香りがする流行り感のある言葉が必要で、無理やり作って根付かせようとしたのが、「ゲームデザイナー」だったのだ。
「スターゲームデザイナー登場」の毎月の連載は、そういったプロジェクトの一環。プロデューサーとかディレクターとか、今では一般的になった呼称が使われるようになるのは、さらに後の話になる。
興奮状態だった僕は、その日のうちに堀井さんに連絡を取って、当時の西新宿の公園の横にあった堀井さんの事務所でいろいろお話をさせてもらうことになった。
それが僕と堀井さんの最初の出会いだ。1983年7月の、暑い日だった。
カメラマンも連れて行かなかった若造の取材に対して、堀井さんはまったく嫌な顔をせずに長々と付き合ってくれた。午後イチからの取材がだんだん日が暮れる頃になってきて、どうしても記事のメインビジュアルとして堀井さんの写真をとらなくてはならなかったので、
「写真いいですか?」
って聞いて部屋の中で軽く撮ろうとしたら、実は堀井さんのほうが出版界ではベテランだった。
『月刊アウト』[21]とか『週刊プレイボーイ』とかいろんな雑誌に関わっていたせいか、すごく慣れていたし、記事作りにも詳しかった。
「普通の写真じゃつまらないよね。バイクにでも跨ります?」
とすぐ横の西新宿の公園の中までわざわざバイクを手押しで運んで行って、ゲーム作家とは思えないようなポーズをつけながら、跨ってくれたのだった。
おかげで、おもわぬタイトルカットが撮れてしまった。すごくおちゃめな人だった。
編集部に帰ったらすぐにラフレイアウトを切って、デザイナーに速攻でレイアウトしてもらう。
『ログイン』は当時のポップな雑誌たちがそうだったように、先割りで原稿を書いていた。先割りというのは、デザイン優先のページ作成方法で、ページを美しく仕上げるために、原稿のない段階でレイアウトを決定し、そのレイアウト通りに原稿を当てはめていくシステムだ。
『ログイン』がこの方式を採用したのは、メジャー雑誌で活躍していた堀内さんと藪さんの影響が大きい。ちなみにお隣のアスキー編集部は、原稿が優先の後割り方式だった。
堀井さんの「スターゲームデザイナー登場」の原稿は、一晩で書きあがった。中2日で初校が上がってきたので、その段階ですぐに堀井さんに見せに行ったのだった。
堀井さんはものすごく、話好きな人なので、少しだけ無口な僕もついつい調子に乗せられてしまう。初校を見終わるころには、堀井さんが次に予定している『軽井沢誘拐案内』[22]の話が終わって、北海道取材でその次のゲームを作りにいくのはどうかという話にまで進んでいった。『北海道誘拐地図』[23]が、そのゲームの仮タイトルだった。
すでに堀井さんの取材から1週間経っていたわけで、ログイン編集部内でも堀井さんの話題はあちこちに登場していた。そのときに出たのが、実際に北海道に行ってシナリオハンティングをして、『北海道誘拐地図』のゲーム作りをしながら、その様子も記事にするのはどうだろうというアイデアだった。
「スターゲームデザイナー登場」の連動企画として、隔号連載で追っていくという面白そうな企画展開を、小島さんや宮野さんや僕や堀内さんで話し合っていたのだった。
映画やドラマ制作ではシナリオハンティングやロケハンは耳慣れたシステムで、ゲームでそれが一般的でないのはゲーム界がまだ未成熟なせいにすぎなかった。
堀井さんが考えていた次のゲームは『軽井沢誘拐案内』というアドベンチャーゲームでやがてエニックスから発売されることになるんだけど、僕はそれと並行して、『北海道誘拐地図』を開発するのはどうか、と堀井さんに持ちかけたのだった。
「ゲーム業界は、たぶんこれから分業制になっていきます。今回の『ログイン』のプロジェクトでは堀井さんにはシナリオだけ書いてもらって、絵とプログラムは別の人間をアテンドしようと思うんです。映画とかドラマみたいに、複数の人間で創り上げていく感じですね。『ログイン』はそれに先駆けますよ。そうすれば堀井さんの負担は少なくなるし、もしかしたら複数のゲームの同時開発ができるでしょ? 構想中の『北海道誘拐地図』を『ログインソフト』の記念すべき第1回のゲームとして、ぜひ作ってください!」
僕は編集部のみんなの意見を代表して、堀井さんにそう提案した。
「そういうことなら、やりますか! 北海道に行っちゃいましょう!」
こうやって『北海道誘拐地図』改め『オホーツクに消ゆ』の開発がスタートするわけだけれど、それはまた次の話だ。
これは僕が最初にアスキー[1]の面接を受けたときの、吉崎さん[2]から小島さん[3]へ伝えられた僕のイメージだったようだ。
吉崎さんの面接を2回経て、僕は小島さんの下に配属されることになる。そうやって、僕の進路は、本人が介さないところで決まっていった。
吉崎さんは、当時のアスキージュニア編集部(新雑誌は『月刊ASCII』[4]の子分雑誌という位置づけなので、編集部名もそんなストレートなネーミングだった)の編集長で、小島さんは副編集長だった。
プログラマーとしてスタートした僕だったけど、それはどうやら本来のレールではなかったみたいで、やがて思いもしない方向に舵が切られていく。
「お前はこれからプログラム禁止になったからね」
「えっ? どういうことですか?」
「今後はプログラム禁止。100パーセント、編集者になってもらうから」
小島さんは、いきなりそう断言した。
あいつは、プログラマーより編集者にした方が面白い。プログラマーはそれなりにいるけど、今この編集部では、編集者が不足している……。
『ログイン』[5]が月刊化されるタイミングで、残念ながら僕はプログラマー失格の烙印を押され、編集者としての道を進んでいくこととなった。
1982年の冬のことである。
そのころ僕は、『スペースインベーダー』で9990点で止めるテクも持ってたし、いっちょ前のゲーマーだった。プログラマーを諦めた僕の『ログイン』内での仕事は、自然とゲーム関係に集中していく。
読者が投稿してくるオリジナルゲームたちのチェックは全部僕だったし、日本のソフトハウスが発売する新作ゲームのチェックも、ほぼ僕になっていた。
ログイン編集部には、いわゆるメジャー雑誌を経験しているプロフェッショナルな人は少ない。ただ例外が2人いて、もと『ポパイ』の編集者でログインへ移籍してきた堀内さん[6]と、音楽関係のライターをしていた藪さん[7]だ。僕はこの2人からとことん雑誌作りについて教わっていくことになる。
短い文章にも起承転結のようなテクニックが必要で、僕は何回も何回も書き直されたものだった(藪さんはシンセも自由に操っていて、後年、ファミコンゲーム『オホーツクに消ゆ』[8]を作る時に、「1曲書いてくださいよ」という話になって、12小節ぐらいの、短いテーマを書いてくれることになった。秀逸な曲だったので、メインシーンの「殺人シーン」にあてることにして、『殺人のテーマ』と命名する。ゲームを遊んだことのある人は、ああ、あの曲かなって思い出してくれると思う。藪さんは『オホーツクに消ゆ』を遊んで、自分の曲を聴いてくれただろうか)。
ちなみに僕もつたないピアノを弾きながら、1曲書かせてもらっている。そんなつもりはさらさらなかったのだけど、作曲を担当してくれた上野くん[9](ゲヱセン上野)が、「塩崎さんも1曲書いてくださいよ」としつこくからかってきたので、ついつい調子に乗ってしまったのだ。『とく子のテーマ』といって、小野とく子なる登場人物(犯人)の病室から次の再捜査が始まるまでの2、3分間流れている曲だ。
こっちは静かなバラード。もしかしたら、あれねって思い出してくれる人がいれば、すごくうれしいかも……しれない。
堀井さん[10]の話をしなくてはならない。
1983年に『ログイン』が月刊化になって、僕は新作ソフトの紹介ページとそれに付随したソフトハウス紹介ページを受け持っていたので、新作ソフトを出しそうなメーカーに片っ端から電話して(といっても、当時ゲームメーカーは少なくて、全部で10社もなかった。なので、週に1回担当者に電話したとしてもまったく負担じゃなかった)、発売前の新作ソフトをどんどん送ってもらっていた。
エニックス発売の堀井雄二作『ポートピア連続殺人事件』[11]もそのひとつだった。
エニックスは当時、「ゲームホビープログラムコンテスト」なるものを開催していて、パソコンゲームのコンテストなんて当時では本当に珍しく、まさしく先見の明だった。さらにエニックスという会社自体がまったく異業種からの参入だったので、業界では「へぇーっ」って感じで受けとめられていた。
編集部の堀内さんや宮野さん[12]も、興味シンシンだった。
コンテストの発表はその年の1月で(ログイン編集部がまだ本格稼働していない段階での入賞作発表だったので、対応が遅れたんだと思う。ただその当時は、1週間1か月を争うようなスピード感は不必要な、緩い時代だった)、たくさんの入選作品のうちのひとつとしてエニックスからもらった堀井さんの『ラブマッチテニス』[13]は、ゲームセンターのマシン上の棚のソフトたちの中に、すっかり山積みとなって埋もれていた。
普通のテニスゲームだったし、誰も遊ぼうとはしない。なので、その『ラブマッチテニス』が、
「えーっ、堀井さんのゲームだったの?」
と編集部内で初めて脚光を浴びることになるのは、「ゲームホビープログラムコンテスト」とは直接関係のない堀井さんの次回作『ポートピア連続殺人事件』のサンプルが送られてきて、しばらく経ってからのこととなる。
『ポートピア連続殺人事件』を遊んでみて、僕はただただ衝撃を受けた。
それまで僕が遊んだことのあるアドベンチャーゲームは、アスキーが作った『表参道アドベンチャー』や『南青山アドベンチャー』[14]、それと英語版の『ゾーク』[15]や『ダンジョン』[16]などのテキスト主体のものと、『ミステリー・ハウス』[17]や『ウィザード&プリンセス』[18]のグラフィック付きのものぐらいで、場所移動とかの概念はなく、移動は主に東西南北に前後上下。「とる」とか「つかむ」とか「みる」とか、そのへんの決められた文字入力をすることがすべての、マニアックなゲームたちだった。
当時はしりのRPG、『ウルティマ』[19]や『ウィザードリィ』[20]にしても、動くのは前後左右か見下ろし方の初期『ドラクエ』風の移動だったから、こんな、いきなり場所指定コマンドで場所移動させる『ポートピア』はある意味、斬新すぎたのだ。
今までの常識的思考がまったく通用しない、意表をついたアドベンチャーゲームのシステムだった。
「これはすごいなあ」
度肝を抜かれるというのは、こういったことを言うのだろう。堀内さんや藪さん、宮野さんも口を揃えて、
「すぐにインタビューにいかないと! 『ログイン』で盛り上げていこう」
と興奮気味だった。
ちょうど『ログイン』内に「スターゲームデザイナー登場」と大々的にネーミングされた、これからのパソコンゲーム界を担うであろうプログラマーやゲームデザイナーを紹介する4ページのコーナーがあったので、それに出てもらおうということになった。
「スターゲームデザイナー」は、たぶん僕たちが作った言葉だ。
プログラマーという言葉はあっても、ゲームデザイナー、ゲーム作家という言葉は存在してなかったし、当時のパソコンゲーム業界には作家やデザイナーなどの片鱗すらなかった。
パソコンゲーム周辺を一人前の業界にしていくためにも、そういったメジャーの香りがする流行り感のある言葉が必要で、無理やり作って根付かせようとしたのが、「ゲームデザイナー」だったのだ。
「スターゲームデザイナー登場」の毎月の連載は、そういったプロジェクトの一環。プロデューサーとかディレクターとか、今では一般的になった呼称が使われるようになるのは、さらに後の話になる。
興奮状態だった僕は、その日のうちに堀井さんに連絡を取って、当時の西新宿の公園の横にあった堀井さんの事務所でいろいろお話をさせてもらうことになった。
それが僕と堀井さんの最初の出会いだ。1983年7月の、暑い日だった。
カメラマンも連れて行かなかった若造の取材に対して、堀井さんはまったく嫌な顔をせずに長々と付き合ってくれた。午後イチからの取材がだんだん日が暮れる頃になってきて、どうしても記事のメインビジュアルとして堀井さんの写真をとらなくてはならなかったので、
「写真いいですか?」
って聞いて部屋の中で軽く撮ろうとしたら、実は堀井さんのほうが出版界ではベテランだった。
『月刊アウト』[21]とか『週刊プレイボーイ』とかいろんな雑誌に関わっていたせいか、すごく慣れていたし、記事作りにも詳しかった。
「普通の写真じゃつまらないよね。バイクにでも跨ります?」
とすぐ横の西新宿の公園の中までわざわざバイクを手押しで運んで行って、ゲーム作家とは思えないようなポーズをつけながら、跨ってくれたのだった。
おかげで、おもわぬタイトルカットが撮れてしまった。すごくおちゃめな人だった。
編集部に帰ったらすぐにラフレイアウトを切って、デザイナーに速攻でレイアウトしてもらう。
『ログイン』は当時のポップな雑誌たちがそうだったように、先割りで原稿を書いていた。先割りというのは、デザイン優先のページ作成方法で、ページを美しく仕上げるために、原稿のない段階でレイアウトを決定し、そのレイアウト通りに原稿を当てはめていくシステムだ。
『ログイン』がこの方式を採用したのは、メジャー雑誌で活躍していた堀内さんと藪さんの影響が大きい。ちなみにお隣のアスキー編集部は、原稿が優先の後割り方式だった。
堀井さんの「スターゲームデザイナー登場」の原稿は、一晩で書きあがった。中2日で初校が上がってきたので、その段階ですぐに堀井さんに見せに行ったのだった。
堀井さんはものすごく、話好きな人なので、少しだけ無口な僕もついつい調子に乗せられてしまう。初校を見終わるころには、堀井さんが次に予定している『軽井沢誘拐案内』[22]の話が終わって、北海道取材でその次のゲームを作りにいくのはどうかという話にまで進んでいった。『北海道誘拐地図』[23]が、そのゲームの仮タイトルだった。
すでに堀井さんの取材から1週間経っていたわけで、ログイン編集部内でも堀井さんの話題はあちこちに登場していた。そのときに出たのが、実際に北海道に行ってシナリオハンティングをして、『北海道誘拐地図』のゲーム作りをしながら、その様子も記事にするのはどうだろうというアイデアだった。
「スターゲームデザイナー登場」の連動企画として、隔号連載で追っていくという面白そうな企画展開を、小島さんや宮野さんや僕や堀内さんで話し合っていたのだった。
映画やドラマ制作ではシナリオハンティングやロケハンは耳慣れたシステムで、ゲームでそれが一般的でないのはゲーム界がまだ未成熟なせいにすぎなかった。
堀井さんが考えていた次のゲームは『軽井沢誘拐案内』というアドベンチャーゲームでやがてエニックスから発売されることになるんだけど、僕はそれと並行して、『北海道誘拐地図』を開発するのはどうか、と堀井さんに持ちかけたのだった。
「ゲーム業界は、たぶんこれから分業制になっていきます。今回の『ログイン』のプロジェクトでは堀井さんにはシナリオだけ書いてもらって、絵とプログラムは別の人間をアテンドしようと思うんです。映画とかドラマみたいに、複数の人間で創り上げていく感じですね。『ログイン』はそれに先駆けますよ。そうすれば堀井さんの負担は少なくなるし、もしかしたら複数のゲームの同時開発ができるでしょ? 構想中の『北海道誘拐地図』を『ログインソフト』の記念すべき第1回のゲームとして、ぜひ作ってください!」
僕は編集部のみんなの意見を代表して、堀井さんにそう提案した。
「そういうことなら、やりますか! 北海道に行っちゃいましょう!」
こうやって『北海道誘拐地図』改め『オホーツクに消ゆ』の開発がスタートするわけだけれど、それはまた次の話だ。
[1]アスキー
1977年設立のコンピュータ系の出版社。初代社長は、郡司明郎さん。
[2]吉崎さん
吉崎武さん。『月刊ASCII』の初代編集長。
[3]小島さん
小島文隆さん。『月刊ログイン』3代目編集長、『ファミコン通信』初代編集長。2015年没。
[4]『月刊ASCII』
1977年創刊のマイクロコンピュータ総合誌。
[5]『ログイン』
新しい形のパソコン周辺の月刊誌を目指した。雑誌名は、ぎりぎりまで『ログイン』か『ログアウト』かで悩んだそうだ。
[6]堀内さん
堀内富男さん。カルチャー誌『ポパイ』編集者。1983年よりログイン編集部デスク。
[7]藪さん
藪暁彦さん。1983年よりログイン編集部デスク。1989年創刊『アイコン』の副編集長。
[8]『オホーツクに消ゆ』
1984年発表の堀井さん作のアドベンチャーゲーム。ログインソフト第1弾。コマンド選択式を初めて採用し、『ポートピア連続殺人事件』、『軽井沢誘拐案内』とともに、堀井ミステリー三部作と呼ばれている。
[9]上野くん
上野利幸くん。別名、ゲヱセン上野。ゲーマーであり、プログラマーであり、編集者であり、作曲家でもある。彼とは長い付き合いになった。
[10]堀井さん
堀井雄二さん。『ドラゴンクエスト』シリーズの作者として、あまりにも著名。愛称は「ゆう坊」。
[11]『ポートピア連続殺人事件』
堀井ミステリーシリーズの第1作。「犯人はヤス!」のフレーズは、みんな知っている。
[12]宮野さん
宮野洋美さん。当時のログイン編集部デスク。北海道やソビエト連邦へのロケハンへは、堀井さん、筆者とともに同行している。
[13]『ラブマッチテニス』
堀井さんの処女作で、純粋なアクションタイプのスポーツゲーム。登場キャラの会話部分では、後の堀井作品の片鱗が見える。
[14]『表参道アドベンチャー』や『南青山アドベンチャー』
『表参道アドベンチャー』はグラフィックは一切無し、英文テキストだけのアドベンチャーゲーム。1982年アスキー編集部開発。日本初のアドベンチャーゲームでもある。『南青山アドベンチャー』は1983年発表、その続編。
[15]『ゾーク』
1980年、インフォコム(米)が開発したテキストアドベンチャーゲーム。
[16]『ダンジョン』
『ゾーク』とともに話題になった、全世界における初期のテキストアドベンチャーゲーム。アメリカ製。
[17]『ミステリー・ハウス』
モノクロ線画によるグラフィックが付加され「ハイレゾ・アドベンチャー」と銘打たれたアップルⅡ用のテキスト型アドベンチャーゲーム。開発はシエラ・オンライン(米)。
[18]『ウィザード&プリンセス』
『ミステリー・ハウス』に続く、ハイレゾ・アドベンチャーの第2弾。カラーグラフィックを採用。
[19]『ウルティマ』
1981年発売。オリジン社開発の俯瞰見下ろし型RPG。2Dフィールドを舞台にしたコンピュータRPGの原形。日本語訳にあたって、「アルティマ」「ウルティマ」の論争が起こった。
[20]『ウィザードリィ』
1981年にサーテック社(米)から発売された、3DダンジョンRPG。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』など、後に日本で製作開発されたRPGに多大な影響を与えた。
[21]『月刊アウト』
1977年創刊のアニメ雑誌(みのり書房)。堀井さんは、長期にわたって読者コーナー「ゆう坊のでたとこまかせ」を担当していた。
[22]『軽井沢誘拐案内』
堀井ミステリーシリーズの第3作。この作品のみファミコン等のコンシューマー機には移植されていない。終盤にRPG風のシーンが登場するなど、その後の『ドラゴンクエスト』へつながる気配を見せている。
[23]『北海道誘拐地図』
『オホーツクに消ゆ』がタイトル候補になる前の数週間は、『北海道誘拐地図』が仮タイトルだった。当然『ログイン』の台割りに書かれていたのは、「北海道誘拐地図シナリオハンティング」という記事名だった。
1977年設立のコンピュータ系の出版社。初代社長は、郡司明郎さん。
[2]吉崎さん
吉崎武さん。『月刊ASCII』の初代編集長。
[3]小島さん
小島文隆さん。『月刊ログイン』3代目編集長、『ファミコン通信』初代編集長。2015年没。
[4]『月刊ASCII』
1977年創刊のマイクロコンピュータ総合誌。
[5]『ログイン』
新しい形のパソコン周辺の月刊誌を目指した。雑誌名は、ぎりぎりまで『ログイン』か『ログアウト』かで悩んだそうだ。
[6]堀内さん
堀内富男さん。カルチャー誌『ポパイ』編集者。1983年よりログイン編集部デスク。
[7]藪さん
藪暁彦さん。1983年よりログイン編集部デスク。1989年創刊『アイコン』の副編集長。
[8]『オホーツクに消ゆ』
1984年発表の堀井さん作のアドベンチャーゲーム。ログインソフト第1弾。コマンド選択式を初めて採用し、『ポートピア連続殺人事件』、『軽井沢誘拐案内』とともに、堀井ミステリー三部作と呼ばれている。
[9]上野くん
上野利幸くん。別名、ゲヱセン上野。ゲーマーであり、プログラマーであり、編集者であり、作曲家でもある。彼とは長い付き合いになった。
[10]堀井さん
堀井雄二さん。『ドラゴンクエスト』シリーズの作者として、あまりにも著名。愛称は「ゆう坊」。
[11]『ポートピア連続殺人事件』
堀井ミステリーシリーズの第1作。「犯人はヤス!」のフレーズは、みんな知っている。
[12]宮野さん
宮野洋美さん。当時のログイン編集部デスク。北海道やソビエト連邦へのロケハンへは、堀井さん、筆者とともに同行している。
[13]『ラブマッチテニス』
堀井さんの処女作で、純粋なアクションタイプのスポーツゲーム。登場キャラの会話部分では、後の堀井作品の片鱗が見える。
[14]『表参道アドベンチャー』や『南青山アドベンチャー』
『表参道アドベンチャー』はグラフィックは一切無し、英文テキストだけのアドベンチャーゲーム。1982年アスキー編集部開発。日本初のアドベンチャーゲームでもある。『南青山アドベンチャー』は1983年発表、その続編。
[15]『ゾーク』
1980年、インフォコム(米)が開発したテキストアドベンチャーゲーム。
[16]『ダンジョン』
『ゾーク』とともに話題になった、全世界における初期のテキストアドベンチャーゲーム。アメリカ製。
[17]『ミステリー・ハウス』
モノクロ線画によるグラフィックが付加され「ハイレゾ・アドベンチャー」と銘打たれたアップルⅡ用のテキスト型アドベンチャーゲーム。開発はシエラ・オンライン(米)。
[18]『ウィザード&プリンセス』
『ミステリー・ハウス』に続く、ハイレゾ・アドベンチャーの第2弾。カラーグラフィックを採用。
[19]『ウルティマ』
1981年発売。オリジン社開発の俯瞰見下ろし型RPG。2Dフィールドを舞台にしたコンピュータRPGの原形。日本語訳にあたって、「アルティマ」「ウルティマ」の論争が起こった。
[20]『ウィザードリィ』
1981年にサーテック社(米)から発売された、3DダンジョンRPG。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』など、後に日本で製作開発されたRPGに多大な影響を与えた。
[21]『月刊アウト』
1977年創刊のアニメ雑誌(みのり書房)。堀井さんは、長期にわたって読者コーナー「ゆう坊のでたとこまかせ」を担当していた。
[22]『軽井沢誘拐案内』
堀井ミステリーシリーズの第3作。この作品のみファミコン等のコンシューマー機には移植されていない。終盤にRPG風のシーンが登場するなど、その後の『ドラゴンクエスト』へつながる気配を見せている。
[23]『北海道誘拐地図』
『オホーツクに消ゆ』がタイトル候補になる前の数週間は、『北海道誘拐地図』が仮タイトルだった。当然『ログイン』の台割りに書かれていたのは、「北海道誘拐地図シナリオハンティング」という記事名だった。

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全部で396ページほどの書籍ですが、この生誕秘話はそのうち51ページぶんで全体の13%弱にあたります。
『198Xのファミコン狂騒曲』では『ファミコン通信』創刊秘話や、堀井雄二さんと作った『いただきストリート』など、 さまざまなエピソードが語られています。興味のある方は、ぜひご一読ください。
全部で396ページほどの書籍ですが、この生誕秘話はそのうち51ページぶんで全体の13%弱にあたります。
『198Xのファミコン狂騒曲』では『ファミコン通信』創刊秘話や、堀井雄二さんと作った『いただきストリート』など、 さまざまなエピソードが語られています。興味のある方は、ぜひご一読ください。